結婚するくらいなら旅行する

同級生の第二次結婚・出産ラッシュに抗いながら一人旅

【途中から閲覧注意】カーリー女神寺院

前の記事:成田→バンコク→コルカタ

 

8時くらいに起床。

シャワーを浴びましたが、お湯が出ませんでした。

コルカタは意外と肌寒く、水シャワーはかなりの苦行でした。

それでもベッドから私に染み付いたベンガルおじさんの臭いがとれ てさっぱりしました。

 

この日はあいにくの雨。

本降りではなかったので、 手ぬぐいを頭に乗せてカーリー女神寺院に向かいました。

同じ名前のお寺がコルカタ内に2つありますが、 私たちが行ったのは小さい方。

小さいけれど、こちらの方が有名なのではないでしょうか。

なぜならヤギが頭を切り落とされるところが見れるから。

 

お寺の前に並ぶお店をチラ見しつつ、お寺に向かいます。

お寺が近づいてくると、おじさんたちが寄ってきて「 カーリー寺院はここだよ!」とか言いながら付いてきます。

そんなおじさん達はガン無視して入場。

入り口には金属探知機が設置されていて、 ピーピー警告音を鳴らしていますが、身体検査をする人もなく、「 ザ・形骸的セキュリティ」でございました。

ちなみに、手荷物も持ち込めましたし、土足で入場できました。境内は撮影不可の張り紙がしてありました。

 

境内はすごい人です。

広くない境内にひしめく人、人、人。

お参りの為に長蛇の列が出来ています。

ヒンドゥー教徒ではないので、お参りはせず、 ひたすら境内をウロウロ。

すると、屠られたヤギの解体作業場を見つけました。

 

【ここから閲覧注意】

 

私たちが見始めた時は、脚の部分を解体しているところでした。

「切る」というより「叩き切る」 という感じで脚がどんどん小さくされていきます。

そのあとは包丁を壁にたてかけて、頭部を半分にスライス。

ここらへんで「あかん…」となる私たち。

解体作業の傍には犬がいて、おこぼれを狙っていました。

 

解体作業をジーっと見ていると、 これから屠られるヤギが連れてこられました。

そしてヤギの持ち主と、解体業者がモメ始めます。

恐らくお布施の値段が原因。

解体の元締めのおじさんは半笑いで「 もう連れてきちゃったんだからしょうがないでしょ。 妥当な値段だよ」的な事を(多分)言っていて、ヤギの持ち主は「 いやいや高すぎる」と(多分)言っていました。

その間、 ヤギは自分の運命を察知してか逃げようとしていました。

半ば強引に元締めのおじさんがヤギを連れて行き、 お清めの水をヤギにかけます。

その横では屠られた別のヤギの内臓が水でバシャバシャ洗われてい て、かなりシュールな光景でした。

水をかけられたヤギは半狂乱になって叫びます。

気付くとカラスがたくさん集まってきていました。

お清めが済んだあとも元締めと持ち主はもめ続け、 その間ずっとヤギは逃げようとしていました。

結局元締めの言う通りの額を渋々払ったおじさん。

ヤギはいよいよ屠殺場へ連れていかれます。

もうすでに沈鬱な気持ちでしたが、好奇心には勝てない私(Curiosity kill the cat)。

屠殺場は壁に囲まれていて、中は日光がほとんど入らず、 薄暗い感じでした。

ヤギが連れてこられて、 待機していたおじさんがズボンをたくし上げます。このときに見えた生足が何だか生々しくて…思い出すとこれが一番オエッとなります。

私たちは外の格子から見ていましたが、格子に飾られている花や、 中で見ている人などでよく見えませんでした。

そのうち内にドンドンドンと太鼓が鳴らされ、 太鼓の音に混じってヤギのメェーメェーという悲しい声が聞こえてきました。

 

ドスンと音がして、静寂。

「終わったのかな?何も見えなかったね」と話していると、 近くにいたベンガルおじさんが「こっちの方がよく見えるよ」 と教えてくれました。

指された方を見ると、 今切られたばかりのヤギの頭が転がっていました。

「ひぇ~」となる間もなく二頭目

子供が角をつかみ、V字型になった木に頭をはめこみます。

頭目は悟ったらしく、一頭目ほど鳴きもしなければ、 逃げようともしていませんでした。

そしてサクッと屠られていきました。

私はこのヤギを「ブッダヤギ」と名付けました。

 

この場所は本当に特殊でした。

屠られているヤギを見ても「 こうやって命を頂いているんだな」 という感想は私は持ちませんでした。

それよりも、死ということを理解していなくても逃げようとするヤギを見て、 人間も本当に死というものが分かっているのだろうか? と思いました。

死への恐怖は遺伝子的な防衛反応であって、 人間特有のものではなく、 人間は自分たちが思っているほど高等ではないんじゃないかと思いました。

結局人間が死について分かっていることといえば、 死別した人たちとはもう二度と会えないということ。 動物と人間を分ける線が引けるとしたらそこかな、と。 しかしながら人間は天国だの輪廻転生だのといって死別= 永遠の別れと認識することを逃げる傾向があります。 ゾウなんかも死を理解すると言われているけれど、 ゾウに天国や生まれ変わりの概念がないとしたら、 死をより本質的に捉えられているのはゾウなのでは?などなど。 色々考えさせられました。

 

それよりも、その場で感じた生々しい死と、 その周りを渦巻くインド人たちの生のパワーが相まって、 不思議な緊張感と高揚感と虚脱感を感じました。

輪廻転生は信じないけれど、 死があって生があるというあたりまえの循環を目の当たりに出来た気がします。

 

ちなみにこの後、 街中で太鼓に似た音を聞くとビクッとするくらいにはPTSDを発症しました。

同行してくれたお姉さんは帰国した今でも太鼓の音は聞けないらしいです。

 

次の記事:インドで本場のチャイ飲んだ